東京高等裁判所 昭和60年(う)187号 判決
被告人 櫻林留男
〔抄 録〕
所論は、要するに、およそ橋の欄干越しに人を川に投げ込み、約六メートル下方の水中に落下させるという被告人の本件行為のごときは、殺人の結果発生の蓋然性が高度であるとはいえないから、殺人の実行行為としての類型性を欠くばかりでなく、被告人において右結果発生の蓋然性が大であることの認識も、また、結果発生に対する認容もなく、専ら飲酒による高ぶった心理状態の下で被害者から乱暴な振る舞いを受けたことを契機に惹起された偶発的、突発的犯行であって、未必の故意の限度とはいえ殺意は認めることができないのに、これを認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というのである。
しかしながら、原判決の挙示する諸証拠を総合すれば、原判示事実は、所論の点を含めて、優にこれを認めることができ、原判決が、被告人につき未必の故意を認めた理由として補足説明するところも、正当として是認できる。所論に即して、当裁判所の判断を示せば、以下のとおりである。
一 原判決の挙示する司法警察員作成の昭和五九年九月六日付、同月一七日付各実況見分調書及び同月一五日付捜査報告書によれば、原判示新月島川に架けられた同判示新島橋は、長さ約五五メートル、幅員約二二・二メートルの歩車道の区別のある緩い太鼓橋様の鉄筋コンクリート製橋梁で、その両側端に設置された欄干の高さは路面から一・二一メートルであるほか、川の水位は、潮の干満により変化するが、原判示犯行当時における、(イ)原判示犯行現場(欄干の北東端から約一六・四メートル中央寄りの地点)付近直下の水深は約〇・五メートル、同所の水面から右橋梁の欄干上端までの高さは約六・一メートルであり、(ロ)これを同橋梁の中央部付近直下について見ると、その水深は約二・二メートル、水面から右橋梁の欄干上端までの高さは約六・七メートルであったことが認められる。そうすると、右のような状況下において、犯人が新島橋の欄干越しに新月島川の水中に人を投げ込む行為は、所論がいうほど危険性がないものとは一概にいうことができないとしても、右(ロ)の中央部に例をとると、その落下距離は六・七メートル、そこに二・二メートル程度の水深があって、水面に落下した際の衝撃の心身に及ぼす影響の程度にもおのずから限度があるから、その余の諸条件いかんによっては、すなわち、比較的川幅も狭く(約四五メートル)、流れも潮の干満による程度のものであること、本件犯行時の季節は夏であり、たとえ深夜の出来事でも、被害者において水泳ができることを前提とする限りにおいて、多くの場合無事に川岸に泳ぎ着くことも可能であろうと考えられるから、必ずしもその行為によって同人が死に至る可能性の程度はさほど高いものとは思われない。
二 しかしながら、本件においては右と同一に論ずることのできない特殊な事情が存在する。それは、当時被害者垂脇祥郎が泥酔状態にあったという点である。すなわち、原判決の挙示する諸証拠によれば、当時被害者は多量のウイスキーを飲んだ結果、血中のアルコール濃度は一ミリリットル中、二・八ミリグラムにも達し、歩く足元もふらつく状態で、運動能力が著しく低下していたことが認められる。したがって、所論にもかかわらず、被害者が泥酔して足元も覚束ない状態であった旨認定した原判決に誤りはなく、被害に遭う直前の段階で、被害者が被告人に対し甚だ粗暴で攻撃的な言動に及び得る状態にあったことをもってしても、右認定を左右することはできない。それゆえ、もし被害者を新島橋の右(ロ)の中央部付近から欄干越しにその直下の水深二・二メートルある新月島川の水中に不意に投げ込んだならば、同人が身構えることのかなわぬことはもとより、水面に落下した際の衝撃と高度の酩酊のため、仮に水泳が達者であったとしても、泳ぐこともできずにそのまま溺死に至る蓋然性が極めて大きいものと考えられる。また、新島橋の前記(イ)の原判示犯行現場付近から欄干越しにその直下の水深〇・五メートルしかない水中に被害者を投げ込んだならば、同人は約六メートルもの高さから落下して生ずる勢いのため、単に水面のみならず、川底にも身体を打ちつけるなどの事態が生ずることが考えられ、その際の衝撃又は水に溺れることによって同人が死に至る蓋然性はこれまた大というべきである。このようにみてくると、泥酔状態にあった被害者を新島橋の上から新島川の水中に投げ込んだ場合には、その水深の程度いかんにかかわりなく、同人が死に至る蓋然性は極めて大きく、しかも、かかる事態は通常人の容易に認識しうるところといわなければならない。
三 ところで、本件新島橋は、東京都中央区勝どき四丁目一三番地先に所在し、その下を流れる新月島川は、東京湾に注ぐ隅田川と朝潮運河とを結ぶ堀割り様の水路であり、付近一帯の土地にはこのような大小の河川がいくつも存在しているところ、被告人も十数年来この近くに居住し、平素これら河川の状況について無関心ではあり得ない環境にあるうえ、屡々新島橋上を往来していたというのであるから、仮に、被告人がいうように、本件新月島川や新島橋の橋下の状況を実際に検分した経験がなかったにしろ、かねて知り得ていた付近河川の状況から推して、その水量・水深や橋の高さについておおよその状況は知り得ていたと思われる。したがって、新月島川にはかなりの水量が流れていて、その水深は人の背が立たないほどもあり、また、その水面から右橋梁の上までは相当の高さがあるという認識を有していた旨述べる被告人の捜査段階における供述は、平素の体験に基づき知り得たことをありのままに供述したものと認められる。また、被告人は、本件犯行に至るまで、長時間にわたり被害者と同席し共に飲酒していたのであり、その言動に徴し、当時被害者が高度の酩酊状態にあったことを十分認識していたことは疑問の余地がないところ、このような被害者が水中に投げ込まれれば泳ぐこともできずに溺死に至る可能性が極めて大であるという認識を有していた旨の被告人の供述もまた、自己の考えを率直に述べたものとして、十分その真実性を認めることができる。これに、その余の原判決挙示の諸証拠を総合すれば、被告人が酒の勢いと怒りに駆られた結果、被害者を川中に投げ込むことによって、たとえ同人が溺死する結果に至ってもやむをえないものと考え、あえてこれを認容し本件犯行に及んだと認めるのが相当である。原判決も説示するように、証拠上認められる被害者の被告人に対する不条理な仕打ちは、被告人をしてとっさに未必の故意を抱かしめたとしても不自然ではなく、本件の具体的状況の下においては、偶発的、突発的な犯行であるから殺意を認め難いとする所論は採り得ない。また、所論指摘の被告人が犯行直後「大変なことをしてしまった」と思い、被害者の救護措置を講じようとした点も、それは自己の行為がいかに危険かつ重大であるかを改めて悟った結果の言動と解すべきものであって、そのことは被告人が未必の殺意を有していたと認定することと矛盾するとは考えられない。ひっきょう、被告人が司法警察員並びに検察官の取調べにおいて、本件犯行に際しては未必の故意を有していた事実を認める趣旨の供述に及んだのは、以上の客観的状況及び主観的事情に照らしても、なんら不自然、不合理な点はなく、十分これを信用することができる。右認定に反する被告人の原審公判廷における供述は措信できない。
四 ところで、所論も指摘するように、被害者の死因は溺死であるが、同人は、被告人によって新島橋から新月島川に投げ込まれた結果、直接水中に落下したものではなく、川面に浮かべてあった木製の浮桟橋かその渡し板、あるいは、これに係留してあったボートの上に落下して頭部・背部を強打した後水中に落ち、結局溺死するに至ったものであることは、原判決挙示の諸証拠に照らして窺えるところである。したがって、被告人が認識予見していた因果関係の経過、すなわち、被害者が直接水中に落下して、その際の衝撃や高度の酩酊のため溺死に至るというそれとは異なった経過をたどって現実の結果が発生したことになり、いわゆる因果関係の経路についての錯誤があったことになる。しかし、このような場合でも、同じ殺人罪という構成要件の範囲内であり、かつ、この程度の齟齬が生ずることは、われわれ日常の経験に照らして通常あり得る事柄であるから、右の錯誤は未だ殺人の故意の存在を否定すべき事由とはならない。そして、およそ情況証拠により未必の故意の有無を認定するに際しては、被告人が犯行時に認識していた範囲内の諸事情を前提とすべきは当然であるから、その時点では認識の対象外であったと認められる右の浮桟橋やボート等の存在は捨象しなければならないが、これを除くその余の前示諸事情を総合して判断してみても、被告人に未必の殺意を認めるのが相当であることは、既に説示したとおりである。
(寺澤 片岡 小圷)